朝まで生テレビ「昭和天皇と靖国神社」を見て(1)
2006年8月6日
宇佐美 保
最近、テレビ朝日放映の「朝まで生テレビ」を見るたびにがっかりしてしまうので、あまり見ないようにしていたのですが、この7月末に放映された『朝まで生テレビ「昭和天皇と靖国神社」』を見てしまいました。
そして、案の定、愕然としました。
この番組は、そのホームページにも紹介されていますように、「昭和天皇の靖国参拝中止の理由が、7月20日付けの日経新聞のスクープで明らかになりました・・・」を背景にして討論されていました。
その「日経新聞のスクープ」に関しては、毎日新聞(2006年7月20日 11時37分)には次のように書かれておりました。
昭和天皇が1988年に、靖国神社のA級戦犯合祀(ごうし)について強い不快感を示し、「だから私はあれ以来参拝はしていない」などと語っていたとされるメモが、当時の宮内庁長官、富田朝彦氏(故人)の手帳に残されていたことが分かった。 富田氏メモ靖国部分の全文 私は 或る時に、A級が合祀されその上 松岡、白取までもが、 筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが 松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と 松平は 平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている だから 私あれ以来参拝していない それが私の心だ(原文のまま) |
でも、驚いた事には、その討論では、以下に抜粋させて頂きます「昭和天皇が海外記者と会見 宮内庁で文書控え見つかる」との朝日新聞(2006年07月26日11時05分)の記事が全く無視されていました。
終戦直後の45年9月25日、昭和天皇が米国のニューヨーク・タイムズ記者とUP通信(現UPI)社長に会い、開戦の経緯や戦後の日本が目指す方向などについて回答した文書の控えが、宮内庁書陵部で見つかった。通告なしにハワイ・真珠湾を攻撃したのは東条英機元首相の判断だったとする説明が事実と確認されたほか、戦争の反省に立って平和国家の建設を目指す意欲などが記されている。 ・・・ 文書は、ニューヨーク・タイムズのフランク・クルックホーン太平洋支局長、UP通信のヒュー・べイリー社長がそれぞれ昭和天皇に面会した経緯を記録した式部職作成の「謁見(えっけん)録」(45年)の中にあった。事前に提出した質問への回答という形を取っている。 クルックホーン氏への回答文は、これまで明らかになっていた幣原喜重郎元首相が作成した原案から複数の個所で修正されている。米国で重視されていた真珠湾奇襲攻撃について、「宣戦の詔書は、東条大将が使ったように使う意図はあったのでしょうか」という質問に、「東条大将が使ったように使われることは意図していなかった」と回答している。
日本の将来についての質問には、「平和的な貢献により日本がやがて国際社会で正当な地位を再び占めることを望む」と回答。「銃剣によって、または他の兵器の使用によって恒久平和が確立されるとは思わない」とも述べている。 ・・・ ベイリー氏への回答文では、日本の将来についての考えを問われ、「日本はいま、平和への新たな道を歩み始めたわけであるが、国民がその望ましい目標に到達できることを心から希望しており、そのためにあらゆる手段を尽くすつもりだ」と答えている。
・・・ |
では、以下に、番組中の奇妙な発言を掲げて行きます。
先ず、日経新聞のスクープに関して、
岡崎久彦氏(外交評論家・岡崎研究所所長)
このメモは、私はこの前から何度も読んでいるんですけどね、ますます違和感がありますね。 私が勉強した昭和史の知識から言って、昭和天皇のお言葉ではないですね。 天皇は戦争裁判を認めていない。 戦犯については、木戸幸一、それから東条さんね、大体もともと戦争裁判に反対でしたからね。 戦争裁判すると言ったら、“朕が忠良なる臣僚を裁くわけにはいかない”とおっしゃっている。 |
田原氏
朕は裁けないけど、占領軍が裁いている |
岡崎氏
“木戸幸一は占領軍に言わせれば犯罪者かもしれないけど、日本にとっては功労者である”とおっしゃっている。 戦争裁判を認めていないのだからA級などと言ってない筈だ。 |
更に、(後半での発言でしたが)
八木秀次氏(高崎経済大学教授)の発言をも掲げます。
ちゃんと手続きを踏んで合祀したにもかかわらず、松平宮司の個人的な責任のようにおっしゃるのは、一寸違うと思う。 ・・・ 松平氏を宮司にする事もちゃんと手続きを踏んでいる。 |
このような、岡崎氏や八木氏の発言はとても奇異に感じました。
田原氏の著作『日本の戦争』には次のように書かれています。
・・・天皇は「開戦の際東条内閣の決定を私が裁可したのは立憲政治下における立憲君主としてやむを得ぬ事である。もし己が好む所は裁可し、好まざる所は裁可しないとすれば、これは専制君主と何ら異なる所はない」(『昭和独自録』寺崎英成著:文芸春秋)と述べている。 |
天皇は「好まざる所は裁可しない」との行動を選択できなかったのですから、東条氏をはじめとする臣僚にしろ、松平氏にしろ天皇のお心を忖度して行動するのが当然だったのです。
そして、彼らが天皇のお心を忖度したか否かに関わらず、彼らの決定の結果は天皇の責任であったわけです。
(それでも、「人間宣言」をなさった天皇には、天皇なりの「私のお心」があって当然と私は存じます。
ですから、
筑波宮司は、天皇のお心を慮り、 松平宮司は頓着しなかった |
と解釈可能です。)
そして、朝日新聞(2006年7月13日)の次の記事で、昭和天皇御自身のお気持ちが分ります。
マッカーサーとの最初の会談で天皇は「(戦争の)全責任を負う者として、 私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねる」と語った。 マッカーサーは「感動にゆさぶられた」(『マッカーサー回想記』)。 |
従って、東京裁判が好まざるものであっても、天皇は東京裁判の判決を御裁可された筈です。
更に、発言の引用を続けます。
小森陽一氏(東京大学教授)
靖国の存在が問題 |
司会の田原総一朗氏
イデオロギーの問題で、今のこの平和を形作っている為に、これは自分で進んで行ったのではなくて、赤紙を貰って行って、古賀誠氏(元自民党幹事長 日本遺族会会長)の親父さんみたいにレイテの洞窟の中で亡くなった人が居るわけ、そういう人のために鎮魂に行くのは当然だと思う。 靖国へ天皇や総理大臣が行くのは反対と言うのは反対。 A級戦犯が無ければ問題ない。 |
田原氏のこのような発言は、日本では数年前までは少数意見(田原氏のような立場の人にとっては、問題発言)だったと私は記憶しています。
そして、大多数は、次の『靖国神社問題:山中恒著:小学館』の記述と同意見だった筈です。
兵隊になって、戦争をすることを、「国家のために血を流す」といいます。国民の生命と生き血を、国家の軍用に提供させるために、徴兵制度を実施し、国民に兵役の義務を課したというのが、政府の本音だったと思いますが、それではあまりにもリアルで露骨です。誰だって「冗談じゃないよ、そんなことはイヤだ」と反対の声をあげたくなります。 徴兵令を施行した翌年、明治天皇は、初めて東京招魂社に参拝しました。そして、「我国の為をつくせる人々の 名もむさし野にとむる玉かき」という短歌を詠みました。この短歌に詠まれた戊辰戦争の官軍側の戦死者は、徴兵制度で戦争にかり出された人ではありません。自らの意志で朝廷側に立って戦った勤王の志士たちです。 徴兵制度がいよいよ施行されると、兵隊たちは、自らの意志で朝廷側に立った人たちを見習うことを強制されるようになります。徴兵令という法律で、無理矢理兵隊にさせられて、「血税」を搾りとられる。このような血税観に立つと、自然に血税の使い道に対して厳しい目をむけます。 反戦思想を生む土壌になります。 政府や天皇にとって危険な「血税観」を国民の意識から消し去るために、登場したのが別格官幣社靖国袖社です。天皇の思し召しで戦死者を靖国神社の神にする。これを、ありがたい、もったいない、こんな名誉なことはないと、国民に思わせ信じさせて、危険な血税感覚を消し去ったのです。そして恐ろしいことにやがて国民は、血税を払うという感覚そのものをなくしてしまいました。日華事変が泥沼化し長期戦になって戦死者が激増しました。まさに血税を搾りとられるようになったのです。 日本は血税を湯水のごとく使って戦争をしたので、靖国神社の祭神も激増しました。戦争が長引さ、激しさを増すと。靖国神社が果たす役割はさらに重要になりました。太平洋戦争が始まる頃には、出征兵士たちは「天皇陛下のために戦って、名誉の戦死を遂げてまいります。靖国神社でまた会おう」と、挨拶するようになったからです。 |
更には、渡辺恒雄氏(読売新聞社主筆)は、論座(2006.2)に於ける若宮啓文氏(朝日新聞論説主幹)との対談で次のように発言しています。
安倍さんは僕に、「分祀のほかに分霊というような考え方もある」という話をしてくれたことがある。ただ、分霊というのは、例えば東郷神社かどこか別のところにA級戦犯の霊を持っていくことだが、靖国神社にも霊が残るんだ。結局、両方の神社に祀られていることになるんだな。 また、分祀というのは、本当によくわからない話なんだ。合祀というのは「座」というけれども、いわば座布団の上に名簿を持ってきて、祝詞か何かをやると、その霊が全部その中に入ってしまう。いったん入った霊を、A級戦犯の分だけ取り戻すということはできないんだという。それは、瓶にある水をちょっと杯に入れて、それでその杯の水をもし瓶に戻したら、その杯分の水だけを瓶から取り出すことはできないじゃないかというような理屈で、今の宮司の南部利昭さんが言っている。 これは、神道の教学上の理由だそうだ。 しかし、南部さんの言っている神道の教学というのは、明治以降の国家神道。廃仏毀釈をし、国教は神道だけだ、ということをやってでき上がった国家神道の教学だ。そんなもののために日本の国民が真っ二つに割れて、さらにアジア外交がめちゃめちゃにされている。そんな権力を靖国神社に与えておくこと自体が間違っている。これを否定するには、やっぱり首相が行かないことですよ。公式参拝は一切やらないことです。それしかない。 |
そして、驚くべき発言を、田原氏らから、聞き続けることになります。
田原総一朗氏
天皇も東条も戦争反対だったのに、戦争になったのか? |
岡崎氏
それは歴史の流れですよ。 歴史なんてもうありとあらゆる潮流がぶっつかりあって、 |
岡崎氏が、このような発言をされるとは驚きでした。
全てを歴史が押し流してゆくのなら、何のために歴史を学ぶのですか!?
私達は、過去の歴史を学び、
過去の歴史同様に流されないように努力するのではありませんか!?。
話を一旦、先の田原氏の発言に戻しますが、田原氏らの“今のこの平和を形作っている為に、赤紙で戦場に行き亡くなった”との発想は、あまりに戦争を美化していて、私は大反対です。
兵士達が戦場で戦ったから、今の日本の平和と繁栄があるというのは、 あくまでも、 現在の平和と繁栄を享受している私達の判断です。 |
逆に、お気の毒な兵士達が戦場で戦う事を拒否出来たら、原爆で、又、東京大空襲などで、多くの方々が命を亡くす事は無かったでしょう。
(田原氏の発言は、生き残った私の身勝手な発言とも思えます。)
歴史の歯車(岡崎氏の発言を借りれば“歴史の流れ”)が少しでも狂えば、 日本中に原爆を投下されたり、ソ連兵に占領されたり、 日本国は消滅していたかもしれません。 |
少なくとも、かつての東西ドイツ、そして今の南北朝鮮のように、分割(2分割どころか、4分割などに)されてしまっていたかもしれません。
従って、田原氏の“靖国に祭られている戦死者(軍神)が、今のこの平和を形作っている”的な発想は欺瞞で、危険と存じます。
ですから、小森氏の投げかけた「靖国の存在が問題」を田原氏のように「イデオロギーの問題」とはぐらかすことなく、真摯に日本人自身で再検討すべき問題です。
(なにしろ、日本国民を、赤紙だけではなく、戦死したら靖国神社に、「軍神」として祀られるとの教育のもとに戦地に駆り出したのですから、田原氏の言われるように「自分で進んで行ったのではなく」)
では、又、各氏の論を掲げて行きます。
姜尚中氏(東京大学教授)
A級戦犯達の発言を見てゆくと“自分は戦争を避けようとした” 結局、戦争を指導した人達は一体何をやりたかったのか? その事によって、これだけの悲惨な状況が生まれた。 それについてA級戦犯はどのような態度をとったのか!? |
岡崎氏
みんな責任を感じて死んでいる。 (東条にしろ東郷にしろ・・・) |
責任を感じて死んでいれば済む問題ではありません。
姜氏の発言のように、「A級戦犯はどのような態度をとったのか!?」を検証すべきです。
武見敬三氏(自民党・参議院議員)
いざ国に深刻な困難が生じた時、「国のために命をかけて、それを防ぐ」という意識を果たして国民がこれから未来に向けて、どこまで持たなければいけないかという議論を我々はもう一度しなくてはいけない。 その議論をきちんとやりながら過去の戦争をしっかり総括して、そして、私自身はね、その戦争については明らかに誤った戦争であった。 そして、又、周辺のアジアの国々に対しても相当に大きな損害を与えて、そして、それを侵略と言う言葉で言われてもなかなか弁明できないような戦争であったと基本認識はきちんと持った上で。 しかし、これから又残念ながら人類社会というものはさまざまな色々な深刻な事に直面する事が明らかで、日本の国の安全を守るためのきちんとした意識を国民が引き続き持ち続ける為には、どういう形でそれを持ち続ける事が、健全で適切かと言う議論を我々はちゃんとやるべき。 |
武見氏発言の「「国のために命をかけて、それを防ぐ」という意識を果たして国民が・・・」の、主語は「国民」である前に「国の指導者」であるべきです。
なのに、武見氏は、先ず国民を主語に考えるから、次の小森氏の発言を招きます。
小森氏
国家のために命を投げ出す為に、 かつて戦争で死んでいった人達の死を利用すると 武見さんはおっしゃっているのでしょ? |
私も、小森さん同様に感じました。
いわゆる、先の戦争で亡くなった方々を、靖国神社で軍神と祀り続け、次の戦いでも軍神と祀りましょう・・・・
武見氏
違う違うそんな事言っていない。 |
だったら、「千鳥ヶ淵墓苑」の整備に関するプロジェクトチームの座長になられた武見さん、どうか早く靖国神社以外に、戦争で亡くなった方々全てを追悼する無宗教の追悼施設を建設して欲しいものです。
田原氏
満州事変と日中戦争は侵略戦争だと思っている。 但し、太平洋戦争は違うと思っている。 あれは、追い詰められたんですよ。 石油も鉄も全部追い詰められて包囲されて、 |
岡崎氏
もう無いですね |
山本一太氏(自民党・参議院議員)
明らかに負ける戦争を戦ったのですから間違った戦争に決まっている。 |
田原氏
じゃどうすればよかった?! |
山本氏
それは非常に難しい。 |
岡崎氏もそうですが、山本氏には心底から呆れてしまいませんか?!
政治家であるなら、日頃から、“如何すれば良かったのか?”は、考え抜いているべきではありませんか!?
小森氏
その時に日本の政権を担っていた人達の政治的な責任ある判断、 それが出来ない状況を自ら作ってしまった。 |
田原氏
近衛が辞めたのは、もう戦争を回避する事はできない。 軍がやっているから“虎穴に入らずんば虎児を得ず” 東条なら出来ると思ったが何故出来なかったか? |
岡崎氏
東条はね4月頃の日米案の時は、“これは受ける“と言ってましたよ。 それを潰したのは松岡です。 けれども、最後になって結局ハルノートですね。 |
田原氏
戦争は悪いに決まっているの。 あの戦争をやった東条には責任はある、戦犯ですよ。 300万の国民殺したのだから。 だけどあの時どういう方法があったのだろうか? |
姜氏
あの結局そこにあるのは、無責任体制で、ドイツと日本の場合根本的に違うのは、ドイツはならず者、A級戦犯にいる連中は、いわゆるアウトローですよ。 日本の場合はエリート中のエリートでしょ! 彼らが一体何に怯えていたか? と言うより、現地の関東軍だったり、軍政局にあっては、実際の次長が課長クラスであったり、つまり下からのいわば沸き起こってくる力を政治と言うものはコントロールできない。 結局、どんどん戦局は拡大して、大本営だって現地でやっている事をきちっと統制できない。 最終的には天皇の聖断に仰ぐという形なので、僕は何でこういう失敗をしたのかと言う事をきちっともう一度検証しないと。 さっき武見さんの言うようなシビリアンコントロールもあるでしょう。 どうやって、立法府が色んな事が起きた時に、これをきちっと管理する事を考えなくてはいけない。 |
田原氏
太平洋戦争は追い詰められてやったと言う事があると思う。 僕は一番ばかばかしい戦争は日中戦争だと思う。 あんな無駄な戦争をやるから、アメリカを刺激して、ああなってしまった。 今、何故こんな事を言うかというと、最近ね、自衛隊の幕僚(出席者から指摘を受けて防衛研究所と訂正)の偉いのがね“中国は日本を併合する”という本を出している。 中国が危ない、日本にどんどんやって来るという空気が出ている。 そういう時日本が如何にあるべきかという時に、戦前の過ちは繰り返してはならない。 どうすれば良いか真剣に考えなくてはいけない。 今までは、日本は安全保障を考えなかった。 姜さん達は、考えない事は良い事だと思っていた。 さあ、今、戦前の過ちを繰り返さないようにするにはどうすれば良いか? |
岡崎氏
それはもう靖国とかA級戦犯とか離れて、どうしてああいう戦争になったか?誰に責任があったか? 歴史的にですよ。 裁くと言う事は出来ないから、歴史的に判断を下す。 私の個人の判断ならね、悪いのは、近衛、広田、杉山。 それから、松岡ですけれどね。 松岡は近衛の任命責任ですよ。 松岡というのは、もともと官僚になるべきでない人を近衛の責任で、結局、近衛、広田、杉山ですよね。 近衛は、若手の将校の突き上げに結局抵抗しなかった時代がある。 それが日本の政策をどんどん片方へ流して行った。 日中戦争の発端は中国側。 そして、収めるところを、近衛文麿さんと広田弘毅外務大臣、杉山陸軍大臣が。 天皇陛下が“止めろ”と言った。 それで、和平案を作った。 これが、チョウジョウ(「(万里の)長城」の意味と私は解釈しました)から南、全部兵隊を引くと言う和平案ですからね。 この和平案を貰って蒋介石が見て(その場に、カホーキンも居て)“こんな条件なら、何のために戦争したんだ”。 直ぐに纏まる様な話なんですよ。 それで纏めるようにしたが、部下の突き上げで杉山が“あれ一度賛成したけど撤回する”と賛成を撤回。 それを、近衛と広田に云って、“軍は態度を変えたよ” 広田が閣議でもって、外務省の下から“絶対反対しくれ”と言われていたが、広田は一言も云わない。 戦争責任者はこの3人。 |
田原氏
あのね、広田と言うのは作家の城山三郎の小説で英雄(『落日燃ゆ』)になっているけど、あれはどうしようもなかったんだよね!? |
岡崎氏
あれは間違いです。 私は、戦争責任を下すのなら、歴史的判断下すんならね、この3人ですね、 |
何故、田原氏は、簡単に岡崎説に同調して“、広田と言うのは・・・あれはどうしようもなかったんだよね!?”と決め付けるのでしょうか?
そして、そう決め付けるにはどのような資料があるのでしょうか??
週刊金曜日(2006.8.4)の『A級戦犯の孫 元外務省局長 東郷和彦氏が語る「天皇メモと靖国」の記事中に、東郷氏の次の発言があります。
広田さんに関しては歴史的なことしか存じません。 ただ、死刑判決の時、祖父(A級戦犯の東郷茂徳氏) 「広田を絞首刑にしてはいけない」と、 母に強くいったという話は聞いています。 |
この発言を、岡崎氏、田原氏はどのように受け止められるのでしょうか?!
更に、田原氏の非難される、城山三郎著の『落日燃ゆ』には、次の記述があります。
・・・一方、このころ、外務省内にも、「革新」を唱える若手がふえた。松岡や白鳥敏夫などの息のかかった連中である。 彼等はときに大挙して大臣室に押しかけてきた。広田はこれを受けて立ち、彼等にいわせるだけいわせて、その上で反論した。 彼等にいわせれば、広田には積極性がないという。それは、杉山陸相が広田を「ぐず」というのと、同一の見方であった。右寄りのこうした声は、近衛の耳に入りやすく、近衛は近衛で、「広田は外務省内の評判がわるいらしい」などといい、一時は、松岡を入閣させることを考えたりした。 近衛はまた、(広田が閣議などで情報や意見を十分に打ち明けず、相談相手にならない) と、不満であった。 だが、それには、理由があった。 近衛のまわりには左右両翼にわたって毛色の変った側近が多く、近衛は彼等によく機密を漏らした。このため、広田は親しい部下につぶやいた。 「閣議では重要なことをうっかりいえない。すぐソ連大使あたりに筒抜けになってしまう」 この点については、杉山陸相も不満で、 「いろんなことが、近衛の側近から漏れて困る」 と、ぼやき、発言を手控える傾向になった。 それが、近衛の目からは、かんじんの陸相、外相が遠慮し合い、本当のことをいわないという風に映った。その上、閣僚の中には、外交の何たるかも知らず、また思いつきだけで質問する男も居り、さらに松岡らの参議が加わると、機密はまるで守れなかった。 |
このような秘密の守れない閣議で、外務省の下から“絶対反対しくれ”と言われていた広田が“絶対反対!”を声高に発言してその結果がどうなったのでしょうか?
それども、広田が“絶対反対!”を押し通して、杉山陸軍大臣が中国が容易に受け入れる(即ち、日本軍が受け入れを)であろう「和平案」に再度頷いたとして、その「和平案」が実行に移されたでしょうか?!
そして、田原氏ご自身の著作『日本の戦争』で次のように記述されています。
一〇月八日、二機の関東軍飛行隊が奉天の飛行場を飛び立った。偵察機や旅客機で編成された奇妙な飛行隊で、指揮していたのは偵察機に乗った石原莞爾だった。目的は錦州の爆撃であった。奉天を追われた張学良は錦州を拠点にして体制を立て直そうと図っていたのだ。 石原編隊は、その錦州の直撃を狙ったのである。だが、どの飛行機にも爆弾投下装置はなく、手で窓から爆弾を投げ落としたわけで、ほとんどが目標の建物を外れ、不発も少なくなかった。 福田和也は「軍事的な見地からすれば、失敗というよりも、計画すること自体が無意味であるような行動にすぎなかった」と、「地ひらく 石原莞爾と昭和の夢」で書いている。だが、その福田は、つづけて「政治的、外交的な意味は、絶大であった。数個師団による攻撃などよりも、数倍する強力な衝撃を国際社会に対して与えた」と指摘している。 石原自身、爆撃から帰った直後に、参謀の一人が「張学良をやったのか」と問うたのに対して、「オレの爆撃の標的は張学良なんかではない。吹っ飛ばしたかったのは政府の不拡大方針と国際連盟理事会だ」と豪語した、という(横山臣平『秘録石原莞爾』)。 これより前、九月三日、中国の蒋介石は、満州事変を、日本の謀略による侵略戟争だと国際連盟に訴えた。率直にいえば、アメリカに何とかしてくれと頼み込んだのである。 しかし、アメリカのスチムソン国務長官は、国際協調重視の幣原外相を信頼しており、若槻首相とはロンドン軍縮会議で親しく話した間柄で、満州事変には強い不快感を抱いていたものの、日本のこのコンビの不拡大政策は理解していた。ハルビン、間島の出兵不許可も評価していたから、そのために、中国の訴えには冷たかった。イギリスも、対ソ戦略から、日本が満州にある程度の軍隊を置くことはよしとしていて、幣原政策は支持であり、国際連盟でことを起こすのには消極的であった。 ところが、一〇月八日の錦州爆撃で、米英の姿勢は一変した。 関東軍の守備範囲から一〇〇キロ以上も隔てた錦州爆撃は、どう見ても自衛のための戦いとはいえず、一〇月九日、アメリカは国際連盟に「圧力と権威を用いる」ように強く求め、一〇月一五日、連盟はアメリカ(国際連盟に加入していなかった)をオブザーバーとして参加させることを決めた。米、英ともに日本政府の不拡大政策に対する不信感を一挙に強め、態度を硬化させたのだった。石原の狙いはまさに的中したのである。 そして二四日には、連盟理事会に、日本が撤兵を直ちに開始し、一一月一六日までにそれを完了させるという決議案が出された。採択の結果は一三対一で、反対は日本一国だけであった(全会一致が必要なため、法的には成立せず)。これは連盟が、満州事変を、日本の主張する自衛の戦争ではなく、侵略戦争だと裁定したということになる。 連盟が、満州事変を侵略戦争だと裁定したとなると、日本政府も、否も応もなく態度を明確にせざるを得なくなった。このときこそが正念場だった。米、英、そして連盟の信頼を復活させるためには、石原はもちろん、本庄軍司令官以下を厳罰に処さねばならなかった。錦州爆撃は、関東軍司令官にも断わりなくやってしまったわけで、あきらかに大権侵害だった。そして新たな占領地域からも全面撤退をしなければならなかったはずだった。 当時、政府に、もしもこの決断が出来ていれば、間違いなく、日中戦争、太平洋戦争は起きなかったはずである。だが、幣原、そして若槻たちには、その決断が出来なかった。 石原たち関東軍の指導部は、もしも政府が全面撤退の方針を出せば、日本国籍を離脱してでも目的達成のために戟う、と申し合わせ、日本内地に向けても広言していた。さらに、政府にとって決定的打撃を与えたのは、錦州爆撃の直後に、橋本欣五郎たちのクーデター(一〇月事件)計画が露呈したことだ。高橋正衛(昭和史研究家)は『昭和の軍閥』の中で、軍首脳部は、満州の戦線縮小に大反対で、政府を威嚇するために、あえてこのタイミングで、クーデタ一計画を露呈させたのだと書いている。もしも、政府が不拡大政策に固執したら、を殺し、政府をぶち壊す。いつでもそれが出来るぞ、と示したのだ。 この洞喝は効いた。 一〇月三日の閣議で、幣原外相は「連盟、米国の容喙を断固拒否する」と強く言明し、二四日には「帝国の国民的生存に関する権益は絶対に之が変改を許さざるの決意」と述べて、「軍隊の全部満鉄付属地内帰還を行なふが如きは事態を更に悪化せしめ」る、と開きなおった。つまり「撤退」などはしないと連盟、そして米、英に対して、いわば挑戦状を叩きつけたわけだ。あきらかに従来の不拡大政策からの大転換であった。 |
このように、岡崎氏が広田非難をした「和平案」の前に、軍の反乱クーデター計画を恐れて「間違いなく、日中戦争、太平洋戦争は起きなかった」決断を下す事が出来なかったのです。
従って、最終的に杉山、広田、近衛がぶち壊したと言う「和平案」を実行に移したところで、(杉山に圧力を掛けた)軍部の反対で実行に移す事が出来ず、中国側にも国際的にも日本は面目を失う事となっていたでしょう!
そこで、次の姜氏の発言となります。
姜氏
岡崎さんが言う事は認めたとしても、日本帝国の中に権力の多元制度をどこで束ねられたかと言うと、最終的には統帥権ですね。 やっぱり天皇ですよ。 しかしながら天皇は、やっぱり少なくとも超越的な主権者としてあるけれども、現実には動いている。 世界はアメーバーのように権力が多元的になって、色んな位階制度の中で、勝手放題色んな事をやっている。 それを全体束ねて、陸軍の中でも勢力を争い、陸軍と海軍が今度は色々やるし、ドイツの大使がびっくりして“日本と言う国はどこに中心があるんだ”と言っている位だから、そういう事情を今にパラフレーズして考えると、官僚支配があって、官僚支配の中で色んな形で権力が多元化している。 そういう風に多元化している時に、それをきちっと意志のもとに統制して、シビリアンコントロールをやれる位の力を戦後60年、日本の政治が本当に出来たのかどうか? |
今回の討論の初めの方で“広田弘毅が、A級戦犯とはどう考えても考えられない”と語っていた姜氏までもが、“岡崎さんが言う事は認めたとしても”と簡単に言ってしまうのは如何なものでしょうか?
それでも、「日本と言う国はどこに中心があるんだ」の兆候に関しては、『落日燃ゆ』の中で、次の記述を見ます。
済南における日本居留民虐殺をきっかけとする日本軍の済南占領(昭和三年五月) によって、ふたたび排日運動の火がついた。 さらに、張作霜を傀儡にして、満州を中国から分離し植民地化しようとしていた関東軍は、張が関東軍に背を向けようとする気配を察し、張の特別列車を奉天駅近くで爆破、張を謀殺してしまった。 田中義一内閣は、最初は天皇に対し関東軍の謀略であることを認め、天皇のお言葉どおりの厳重な処罰をお約束したが、軍部の突き上げにあうと、態度を一変。国際問題に悪影響を及ぼすとの口実で、事件を満人の仕業にしてしまった。 このため、天皇は激怒され、二度と田中総理の顔を見たくないといわれた。「天皇の軍隊」の名の下で、平然と天皇に背くような軍部が、すでにでき上りつつあった。 |
更に姜氏の“陸軍の中でも勢力を争い、陸軍と海軍が今度は色々やるし”の件は、結果的には天皇よりも、自らが所属する陸軍、海軍、或いは官庁の為に“勝手放題色んな事をやっている。”となっていたのだと、(又、今も国民無視の・・・)存じます。
ですから、冒頭の「富田氏メモ」と共に掲げました「昭和天皇が海外記者と会見 宮内庁で文書控え見つかる」との朝日新聞(2006年07月26日11時05分)の記事中の昭和天皇の発言に至るのです。
米国で重視されていた真珠湾奇襲攻撃について、 「宣戦の詔書は、東条大将が使ったように使う意図はあったのでしょうか」 という質問に、 「東条大将が使ったように使われることは意図していなかった」 と回答している。 |
昭和天皇は、この発言時点(終戦直後の45年9月25日)でも、「宣戦の詔書」が外務省の怠慢行為によって、「真珠湾攻撃」の後に米国側に手渡された経緯を御存じなかったのです。
外務省は、その怠慢行為を天皇に報告してなかったのです。
ですから、天皇は、「宣戦の詔書」が「真珠湾攻撃」の後に米国側に手渡されたのは、「東条大将の意図」とご認識し続けていたのです。
(否!もしかしたら、天皇は、この質問を受けるまでは、「宣戦の詔書」が「真珠湾攻撃」の前に米国側に手渡されたと認識されていたのでは?)
そして、東京裁判の過程で、この外務省の怠慢行為が明らかになるのです。
この件は、先の拙文《外務省とマスコミの怠慢(吉田茂氏の謎)》の一部を再掲させていただきます。
・・・外務省の第十二回外交記録公開(平成6年11月)で公開された「昭和16年12月7日対米覚書伝達遅延事情に関する記録」全文のコピーを入手すると、尚、驚くべき事実に出くわしました。
先ず、「昭和22年8月14日付・結城司郎次極東軍事裁判証言予定要旨並びに在米大使館の責任問題に関する私見」の記述を見れば、「築き上げられてきた外務省の歴史」が如何なるものかを認識されるでしょう。
即ち、次なる記述です。
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今更責任者ノ処分ヲナスハ不適当ト認ム …… 要スルニ本件ハ関係者ノ怠慢トカ官紀ノ弛緩等ニ依ルノデナイコトハ、十ケ月ニ亙ル日米交渉ヲ通ジ関係者ノ献身的努力ノ実績ニ徴シテモ明カデアル。 事情右ノ通ナルト共ニ、他方過去数年問処分セズニ放置セル問題ヲ世間ガ問題ニシクルガ為今更慌テテ渋々乍ラ処分シタトノ印象ヲ与へルコトハ、外務省ノ威信ヨリスルモ賢明ノ策トハ考へラレナイ。 |
とんでもない失態をしでかしそれを隠蔽しようとする外務省に「外務省ノ威信」なるものが存在するのでしょうか?
その上「本件ハ関係者ノ怠慢トカ官紀ノ弛緩等ニ依ルノデナイコトハ、十ケ月ニ亙ル日米交渉ヲ通ジ関係者ノ献身的努力ノ実績ニ徴シテモ明カデアル。」と白を切っているのです。
そして、この時点から、国民が世界中から卑怯者との非難を浴びようが、外務省の(中身の希薄な)威信を大事にするというお役人根性が既に蔓延っていた事が判ります。
一方、西春彦・元外務大臣東郷茂徳被告の主任弁護人(元外務事務次官)が岡崎勝男外務事務次官に宛てた、遅延事情の真相説明を求めるとともに外務省関係者の証人選定を依頼した書簡には「斯る重大問題に失態ありし以上切腹して御詫び申すが至当なり」との記述が見られます。
……本日の部会に於て例の十二月七日の対米覚書手交遅延問題が取上げられ種々の意見出で申候。日く当時の海軍武官補佐官某氏(目下巣鴨入監中)は事情を知り居るとの事故証言を求め可然、日く野村大使に証言を求むるは適当ならず井口又は松平氏に依頼しては如何、当時の担当者は誰か(奥村氏なる事先般野村大使より弁護団に話されたり)、事件の始末書は外務省に詳細出来し居る由の処、斯る重大問題に失態ありし以上切腹して御詫び申すが至当なり、彼は今何を為し居れりや等々。 小生は過去半歳に亘り本件証人を得るに腐心せるも未だに成功せず。嘗て寺崎次官に申入れしも、大臣の御意向として本件は此侭になし置く様にと仰せ付かり居れりとの事にて、始末書の件も況や証人問題も全く要領を得ずに引取り申候。…… |
この結城氏と西氏のどちらの言い分が正当かはその他の史料を見れば歴然としています。
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以下に抜粋しました「(昭和21年6月)・大野勝巳総務課長による総括意見」は誠に当を得ているのです。
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第二、判断 以上の諸点に鑑み左の判断が下される。 (1)大使館首脳部が電信課員のみに依る電信非常時執務態勢を整備せしめて置かなかったということは、あの国家非常の時に際しての在外公館の事務遂行上不行届きであったという非難を免れない。〔欄外記入B〕 (2)十二月六日深更までに解読を了していた十三本分のテキストの浄書が時を移さず着手されていたとしたら、翌七日の朝に浄書のために費やした時間と労力を省き得たものと考えられる。即ち最も好調に進行していたとしたら、翌朝は訂正電を挿入するのと十四本目の解読分を付加するのみで仕事は完成していたと思われるが、この点は直接電信課を統轄し且つ浄書の任に当った首席書記官〔欄外註記C〕の任にあった館員の職務怠慢乃至注意不十分たるの責めを免れない。以上。 欄外記入 B「野村大使、若杉公使、井口参事官」、C「奥村書記官」 |
ところが、前掲の西春彦主任弁護人の書簡に“大臣の御意向として本件は此侭になし置く様にと仰せ付かり居れりとの事にて、始末書の件も況や証人問題も全く要領を得ずに引取り申候。……”と書かれているように、当時の外務大臣吉田茂は、この不始末を不問に付そうとしていたのです。
このような外務省のミスは、「斯る重大問題に失態ありし以上切腹して御詫び申すが至当なり」だけでは済まない問題です。
なにしろこのミスによって、日本は卑怯な国民との烙印を押されたのです。
そして、米国民の日本に対する戦意を高揚させてしまったのですから、外務省は戦争責任を負うべきでしょう。
でも、外務省出身の岡崎氏はもとより、田原氏も他の出席者もこの件に関して何ら発言していませんでした。
ミスは誰もが犯します。
しかし、そのミスをしっかりと検証して、ミスの防止策を積み上げてゆかない限り、姜氏の“シビリアンコントロールをやれる位の力を戦後60年、日本の政治が本当に出来たのかどうか?”との疑問はいつまでも解消されないでしょう。
そして、いつまでもミスを繰り返してゆく事となってしまうのです。
あまり長くなりましたので、次の《朝まで生テレビ「昭和天皇と靖国神社」を見て(2)》に引き継がせて頂きます。